屋敷の中は欅や檜の太い柱が豊富に使われ、外観に劣らぬ立派な造りだ。ガイドの話によれば、そうした建材は皆、北前船で運ばれてきたものだという。
右近家の持ち船だった八幡丸の大きな船模型、そして八幡丸の船幟を見つつ、奥へと進んでいくと、そこは北前船関連の資料の宝庫だった。
北前船の商いで使われた帳簿や印鑑、船磁石等の道具や、設計図面、右近家所有船の名を示した船名板等、短い時間では消化しきれない展示品の多さだった。そして澪たちは、船箪笥が多く置かれた一角に案内された。
「田辺さん……」
船箪笥についての説明を受けた後、澪は幸成に小さな声で呼びかけた。
「わかってる」と答えると、幸成はガイドをしてくれた初老の男性に、
「変なことお伺いして申し訳ないんですけどね、ここ最近、二、三日の間に、こういう男が訪ねてきませんでしたか?」
幸成がスマホに映したのは、北浦の画像だった。市立資料館で勤務中に撮られたものらしいが、澪があまり見たことのない笑顔を浮かべていた。
「ん……あー、ちょっと待ってて」
ガイドはいちど入口の方に戻ると、受付の女性スタッフを連れて戻ってきた。
「あー、この人だね」
北浦の画像を見た途端、受付スタッフが声を上げた。
「あれ、一昨日だったかしらね。ここで騒ぎ起こしたでしょ?」
「なんです、それ? 詳しく教えてもらえませんか?」
幸成が目を細めた。
ガイドと受付、ふたりが言うには、一昨日、北浦らしき男がこの右近家を訪ねてきた。普通に入館料を払い、見学をしていたが、ガイドが気づくと、この船箪笥を触っていたというのだ。ガイドに声をかけられると、彼は逃げるようにこの場を立ち去ったという。
「へえ。どれ触ってました?」
幸成が質問すると、ガイドが怪訝そうな顔になった。
「いや、それは……お客さん、あの男の知り合いなの?」
澪は慌てて幸成の顔を見たが、彼は平然と、
「いやー、この男、札付きでね。どの世界にも質が悪いマニアというのがいてですね。私、実は酒田の資料館で案内のボランティアをしてるんですけど、こいつ、うちの資料館でも置いてある船箪笥をいじろうとしてましてね。まぁ、僕が気づいて止めたから、被害はなかったんだけど。ほら、情報共有っていいますかね、こちらにもお知らせしといた方がいいかなと思いまして」
幸成の話に、澪は呆れるやら感心するやら忙しかった。あらかじめ用意していたのか、こんなホラ話をよくも真面目な顔で言えたものだ。
「ほぅ、そうなんですか」
「へぇ、なんか真面目そうに見えたけど、そういう人ほど変なことするのかしら」
ガイドと受付のふたりは素直に信じてしまったようだ。
「で、どの船箪笥に触ってました?」
幸成が再び尋ねたが、ガイドは首を捻った。
「私が気づいた時はそれ」
と、いちばん大きな船箪笥を指さした。
「ただ、その前にどれかに触ってかもしれないからねぇ」
「なるほど。でも、まぁ見たところ、どこか壊された様子もないから大丈夫でしょう」
幸成は勝手に納得すると、
「それじゃあ次はあそこですか。上の西洋館? あそこをご案内いただけますか?」
ガイドを促して、自分から先に右近家を出ていってしまった。ガイドが支度をしている間に、澪は幸成に囁いた。
「田辺さん、船箪笥、調べなくていいんですか?」
「うん」と、幸成は即座に答えた。
「でも、北浦さんはここにある船箪笥を調べに……あの刻磁石の〝針〟の欠片を探しに来たんですよね?」
「そうだよ。だけど、僕たちがあらためて船箪笥を調べる必要はない。北浦さんは欠片を確実に手に入れただろうからね」
「どうしてわかるんです?」
澪には幸成の確信めいた言い方が理解できなかった。
「あの用心深い北浦さんが、あののんびりしたガイドさんに見つかったからさ」
「え?」
「北浦さんは油断してたんだよ。だからあのガイドさんに現場を押さえられた。どうして油断したか? 決まってる。目的のものを見つけた直後だったからだ。今から僕たちが無理やり箪笥を調べたところで、空になった隠し戸か抽斗が見つかるだけさ」
「なるほど……」
うまく言いくるめられた気もしたが、確かに理屈は通っている気がした。
「だいたい、船箪笥を調べるって、どうするつもりだい? あれはここが所有している大事な展示品なんだよ? 北前船の時代から来た男の足どりを追っているんで、そのために調べさせてください、とでも?」
「いや、それはさすが……でも、こっそりとか」
「それこそ犯罪でしょ。風見さんは市役所の職員なんだから」
「……」
気がつけば説教までされていた。
「北浦さんはあの書きつけに従って、北前船所縁の場所を巡っている。今はそれがわかっただけで十分でしょ?」
「確かに」
そんなやりとりをしていると、ガイドが屋敷から出てきた。
「それじゃあ上の西洋館にご案内しましょう」
澪たちが行ったのは、右近家の裏山……といっても、丘ほどの高さだが、その上にある「旧右近家住宅西洋館」だった。二階建ての瀟洒な洋館で、昭和十年に建てられたものだ。
旧右近家住宅西洋館
「ここ、一階がスパニッシュ風、二階が丸太を外壁にしたシャレー風、えー、つまり山小屋風にできています。瓦はスペイン瓦が使われてて、とても昭和初期のものとは思えない、お洒落な建物でしょう? 雰囲気のある建物だから、最近だと一般見学だけじゃなくて、コスプレ? なんかのイベントにも使われたりしてね。じゃあ中へ」
ガイドに導かれて中へ入ると、日差しに溢れた明るい室内が待っていた。日本海側の町にいることを忘れてしまいそうになる、ガイドの言っていたように、確かに南欧の趣だった。
室内を一巡した後、澪と幸成はあらためて洋館の前に出た。
目の前に絶景が広がっていた。
この土地の象徴である海岸に置かれた巨大な北前船のモニュメントを中心に、日本海と河野地区が一望できる、まさに絶景だった。こうして高いところから見下ろすと、一層、海が迫って見える。
「海、近いって思ったでしょ?」
幸成の問いかけに澪は素直に「はい」と答えた。
「でもね、昔はもっと海が迫ってたんだ。あの道路、国道三○五号が走っているところも本来は海で、戦後に拡張された土地なんだ。海はあのあたり、右近家の外蔵のすぐ手前まで迫っていたんだ」
「蔵のすぐそこまで? 家よりも蔵の方が海に近かったんですか? ひょっとして海から直接、荷物を揚げるためにですか?」
「いやいや、ここにそうした港はないから」
「あっ、そうでした。でも、だったらなんのために?」
「ここも酒田と同じで風が強い。風除けの役割もあったらしい」
「そうなんですね……」
澪は不思議な感慨を抱いていた。
ここは船主集落で寄港地ではない。だが、それでも北前船の土地だ。
──だから、ここも風の町なのか。
「こちらにいらっしゃったんですか。なら、ちょうどいい。これから船主通りをご案内しますけど、行く前にここからまずご説明しておきましょうかね」
洋館の係員と話していたガイドが近づいてきた。
船主通り──河野北前船主通りは、右近家から北へ延びる、細い通りだ。
「ここからいちばん近いのが、さっきまでいた右近家」
澪と幸成の間に割って入るようにすると、ガイドが手を伸ばして説明を始めた。
河野北前船主通りマップ ※「河野北前船主通り散策ガイド南越前町」より抜粋
「北前船船主の屋敷跡は日本各地にありますが、この河野北前船主通りは、文字通り、ひとつの通りに船主たちの屋敷が残っているのが特徴なんです。
ここから北の方向、まずは右近家の隣が船頭頭の屋敷跡、右近家中村家の菩提寺の金相寺、右近家と並ぶ北前船主の中村家、隣は中村家の分家、そしてその隣も北前船主の刀禰家、詳しい説明は通りを歩きながらしましょう」
澪たちはガイドに先導され、右近家の前に降りた。そこから北へ延びる船主通りは、車一台も通れないような狭い道だ。
西洋館の前から見下ろした時はそうは思わなかったが、こうして地上に立って視線を向けると、そこは別世界のようだった。向かって右手に古い屋敷が、左手に蔵が並んでいる。
「この右近家からいちばん近いのが、右近家の船頭頭の屋敷跡です」
ガイドの説明にうなずきつつも、澪は、
「どうして右近家のこんな近くに建てたんでしょう?」
「それは……」幸成が答えた。「船頭頭といってファミリーみたいなものだからね。キャッチフレーズ的なことじゃなくて、有能な船頭頭がいれば、養子にとることもあったんだ。そうやって、家の力を高めていった。だから、家に男の子よりも女の子が生まれた方が喜ばれるみたいなこともあったらしい」
「え? 女の子じゃ商人や船頭にはなれないのに?」
「でも、優秀な商人や船頭を婿に迎えることはできるだろう?」
「あぁ、なるほど……」
船頭頭の屋敷跡の隣には、金相寺という寺があった。だが、普通の寺のように境内といったものはなく、本堂がそのまま道に面しており、小さな鐘楼は道を挟んだところにあった。
「なんだかコンパクトで可愛らしいお寺ですね。ひょっとしてこうなってるのって、土地の狭さが原因なんですか?」
澪が言うと、ガイドが小さく手を叩いた。
「その通り、ですよ。さっきも言いましたが、この金相寺は右近家、中村家の菩提寺なんですが、それ以前、江戸の初期から廻船業とは縁が深くてね、なにしろ自身でも船を持って海運業をやっていたくらいですから」
「お寺さんが海運業? 凄いお話ですね」
説明に澪が驚くと、ガイドは笑った。
「それだけ船と縁が深い集落だったということなんでしょうね」
それから澪たちは、右近家の元々の主筋に当たる中村家、その隣は中村家の分家、そして同じ北前船主の刀禰家の屋敷を見て歩いた。
途中、澪たちは多くの幼児たちを散歩させている保母たちとすれ違った。大型乳母車に乗せられた子どもたちの色とりどりの服装が、焦げ茶と灰色に沈んだ通りの景色の中では、ひどく場違いに見えた。
だが……と、澪は思い直した。ここは北前船の歴史を伝える場所であると同時に、町の住人たちの生活の場でもあるのだ。
「上でお伺いしましたけど」澪はガイドに呼びかけた。「こうして歩いてみると、やはり特別な感じがしますね。酒田で見学した廻船商人の屋敷も興味深かったんですけど、こうして通りいっぱいに、そのまま歴史的な建物が並んでいるのを見ると……?」
澪は首を傾げた。
ガイドがなにか答えている。口は動いているのに、声が聞こえない。幸成も喋っているが、やはりその言葉も聞こえてこない。
──田辺さん!
幸成を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
──おかしい。
変だ。
景色がぐらりと揺れた。ひどい目眩に襲われて、思わず目を閉じた。そうしていたのは一瞬だったが、再び目を開いた時、澪の目の前から幸成とガイドの姿が消えていた。
不思議に思っていると、突然、背中から喧しい声が聞こえてきた。さっきの保母たちに連れられていた子かと思ったが……。
──風車を手に澪を追い抜いていったのは、着物に草履の子どもたちだった。
──ごーん。
目の前にある金相寺の鐘が鳴った。
その音に引かれるように、澪はふらふらと歩き出した。
中村家、船頭頭の屋敷、そして右近家、どこも門が開かれ、大勢の人たちが出入りをしていた。通りにも人が溢れ、荷物を担いで急ぎ足で歩いていく。商人らしい者、船乗りらしく日に焼けた者……誰もが着物姿で、髷を結っている者がほとんどだ。通りの反対側、並ぶ外蔵の間に視線を向ければ、海がすぐそこまで迫り、潮の濃厚な匂いが鼻をくすぐる。
「……うっ」
また、だった。
右の掌が焼けるように熱くなっていた。
『──に、会いたい』
ざわめきの中から、あの声が聞こえてきた。
「……この声」
前にも聞いた。
男の声とも女の声ともつかない、不思議な響き。
いったい、誰の声なのか?
『──に、会いたい』
もういちど聞こえた。
そして再び……。
ごーん。
金相寺の鐘が鳴った。
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